祈りは前を向かない

祈りとは、必ずしも前を向くものではないのかもしれない。
彼らは何かを願うように、街を見つめているわけではない。
救おうとも、変えようともしていない。
ただ、そこに在ること。
それだけで、人の営みと同じ時間を生きている。
背中とは、語らない姿だ。
けれどその沈黙は、どんな言葉よりも、長く、深く、届く。
あわせて読みたい


越中の秋を写して|長慶寺五百羅漢に広がる色彩の庭
富山市の紅葉名所「長慶寺・五百羅漢」を訪れ、静かに色づく秋の景色を写真とことばで綴るフォトエッセイ。円山庵の門にかかる深紅の枝、石仏が並ぶ参道に舞い落ちる葉、羅漢像の背中に積もる赤い絨毯。長慶寺の高台からは、富山市街と雪化粧した立山連峰を望む絶景も。越景写旅の筆者MIZUが、移り住んで34年になる越中の季節の息づかいを写し、そっと心に寄り添う風景として紹介します。


コメント
コメント一覧 (6件)
おはようございます
深いですね
祈りって、自身の心の中での思いでしょうけど
お地蔵様のように無心でいることもひとつの
姿なのでしょうね~人は欲が深いです><
べり~*さん、おはようございます。いつもありがとうございます。
仰る通り、祈りは外に向けるもののようでいて、実は自分の心の奥と静かに向き合う行為なのかもしれませんね。
並ぶお地蔵様たちの後ろ姿には、何かを願うというよりも、ただそこに「在る」だけの無心さがあって、その姿がかえって人の心を映し出しているように感じました。
私たちはどうしても欲や迷いを抱えて生きていますが、だからこそ、こうした風景に触れたときに「無心」という在り方に憧れ、立ち止まることができるのかもしれません。
あまり背中から見る事ないですが、「親の背中見て子は育つ」ってありますから、年取ってもいい背中でありたい(;^_^A
NOBさん、いつもありがとうございます。
確かに、お地蔵様を「背中」から見る機会はあまりありませんよね。
それでも、静かに並ぶその背中には、言葉以上に多くを語るものがあるように感じました。
「親の背中を見て子は育つ」という言葉、本当にその通りだと思います。
年齢を重ねても、誰かに何かを強く示そうとしなくても、ただ在り方そのものが穏やかで、少しでも温もりを感じてもらえるような、そんな“いい背中”でありたいですね。
祈り…
今やどれだけ神に祈ろうと
その祈りは異常な独裁者たちによって
踏みにじられてしまいます。
今の時代には祈りも信仰も
無力なのかと思わざるを得なくなってきました。
応援ぽち
よっちんさん、いつもありがとうございます。胸に迫るお言葉です。
確かに、どれほど祈っても、現実はあまりにも無情で、理不尽な力によって踏みにじられてしまう――そう感じる瞬間は、私たちの身の回りにも溢れていますね。
祈りや信仰が、あまりに無力に思えてしまうお気持ち、とても自然なものだと思います。
お地蔵様たちの背中は、何かを劇的に動かす存在ではないけれど、ただそこに在り続けることで、誰かの心をそっと受け止めているようにも見えました。
無力に思える時代だからこそ、祈りは「希望」というより、「人が人であるための最後の居場所」なのかもしれませんね。